成功する為に必要なことは〜その時に応じた努力を積み重ねて成長するしかない

スタッフ日誌

成功者の話を聞けるということ

サッカー選手である本田圭佑氏が子供から相談を受けたというのをどこかで読んだ。

「プロになりたいと言っても親が勉強しろと言ってサッカーを許してくれない」という相談に対して、「大人から見ても君が本当にプロになれるとは見えないからじゃないか?誰がみてもプロになれると思えるほど君はサッカーに対して取り組んで努力しているのか?」みたいな回答をしたという記事を読んだ。

本田圭佑氏らしいなと思った。

どこで読んだのか気になるので、改めて検索してみたら旧Twitterでの投稿だったみたいだ。

Twitter(X)より

子供の頃に本当の事を的確に指摘してくれる大人の存在は貴重な存在だ。ましてや目指そうとしているジャンルで成功した大人の言葉なら刺さるに違いない。残念ながら私が子供の頃にそういう大人はいなかった。もちろん親切な大人は多かったが的確なアドバイスができる人(つまり自身が経験者であること)は周囲には居なかった様に思う。

重要な言葉が私にもあった

ただ、私の記憶の中に忘られない言葉が残っている。似たような内容に触れた言葉が中学校の音楽室に掛けてあったのだ。この言葉が「なんだか特別な言葉」に思えて記憶から消えず未だに頭の中に残っている。

書き写してた訳ではないので言葉は正確ではないが、

「天才でない人間が世に存在価値を認められようとするならば、傍目には狂人と思われる程の努力が要求されるものだ。」

だれの言葉かはわからないが音楽室にかけられてあった

という感じだったのを覚えている。多分、署名はあったと思うのだが、誰の言葉かまでは記憶していない。おそらく音楽の先生の好みで掲げた書だと思うのだが、当時中学生であった私にとっては誰の言葉ということは関係無く言葉が自分の心に刺さった。

人生の中で没頭したことがあるだろうか?

私は小学生、中学生と野球が好きで取り組んでいたが、正直言ってプロを目指すなどという意識レベルではなかった。それなりに取り組んでいたが、中学校の部活では夏休みに練習をサボって海に釣りに行ったことが監督にバレていて、夏休み明けに咎められてしまい、レギュラーから外されたのも苦い思い出だ。

まだ続きがあって、県の大会で試合があった時のことだが、レギュラーを外れて補欠参加の試合中、チームメイトとトイレに行こうと試合中に抜け出してトイレに行ったところ体育館で女子バレーの試合をやっていたので、かわいい子がいないかなーなんて感じで観て試合中にサボってしまった。コソッと戻ったのだが試合後に監督にはバレていて叱られた。間の悪いことに私を代打で出そうとしたら居ないということに気づいてバレてたのだ。後で説教されたのが忘れられない(体罰は食らってない)。

また、電子工作に没頭した時期もあった。当時の情報は書籍が頼りで限りもあった。電子工作に必要な部品の入手も秋葉原から通販してくれる店に郵便で注文して数週間かけて手に入れていた。アナログ回路、デジタル回路(デジタルIC)の学習が楽しかった。半田ゴテで基板に部品を取り付けていき動く様に修正しながら独学で書籍を頼りに学習していた。

後に母親から聞いた話だが、私が幼少期に部屋の隅っこで大人しく何かをしているのに気づき見てみたら、親父のブラウンのシェーバーをバラバラに分解していたらしい。親父は怒ることもなかったそうだが、もしかすると静かに誘導してくれたのかも知れない。中学生になった時に電子工作の工具を一式買ってくれたのだ。振り返ってみれば色々なモノを分解してから組み立て直すということをやっていた覚えがある。

この路線で技術系の進路は決まってしまった。就職してからは仕事も楽しかった。好きな仕事に就けたから夜勤すらも楽しくて仕事ばかりしていた。とても恵まれた設備(計測器など)が整っていて勉強し放題だった。それでも「傍目から狂人と思われる程の取り組みをしたか?」と問われれば否である。それなりに収入も得ていたので仕事と遊びとで充実した20代を送ったと思う。

20代ではスキーにハマった時期があった。夜勤明けで寮に帰ってからスキー道具を持って新幹線で上越へ泊まり掛けで行き、翌日滑って帰って来るということを繰り返していた。一人でスキーに行けば時間を有効に使えてどんどん上達できるのが嬉しかった。仲間と楽しくスキーをするというのとは別の魅力があった。

しかしある時、ブーツがビンディングから外れて転倒した際に、スキーのエッジが顎に当たってバックリと切れて流血するというアクシデントに見舞われた。流血しながらスキー場の運営スタッフに声を掛け、スノーモービルに乗せてもらってスキー場の近くの医者に縫ってもらったのだが、処置を受けた後にスキーへの熱が冷めた。身体的に大けがをしたとか言う理由でもなく精神的な理由でほんの一瞬の事だったと思う。

30代ではPCにハマった時期がある。Windowsパソコンで学習を始めたが長期間稼働させっぱなしだと不安定になることに不満を抱く様になった。そしてPC-UNIX(FreeBSD)という安定性の高いPC用OSを知ったのだ。Windowsから始まったPCスキルの探求は完全にPC-UNIXに方向転換した。

この頃、かみさんと知り合って付き合っていたのだが、仕事帰りに彼女の家に寄って晩飯を一緒に食って、テレビを観たりしてから自宅である寮に帰っていた。寮の自分の部屋に帰ってからが毎日の本番だった。毎日PC-UNIXの学習に没頭してた。毎晩地道に似たようなことを繰り返しながら失敗したらやり直しという感じで夜の3時頃まで起きて繰り返していた。そして3時間ほど寝て6時には起きて仕事に行くという毎日を送っていた。

こういう生活を一年以上は続けた。毎日の時間が全然足りなくて一日ずつ積み重ねていくしか方法がなかった。自分で振り返ってみるとこの時期の行動はちょっと異常ではあったと思う。よく一年以上続けられたものだ。

PC-UNIXの学習に関しては、ある時、知識が結実した瞬間があった。学習してきた知識がアレコレと結びついた瞬間があったのだ。この技術とこの技術を組み合わせたらコレができるじゃないか!と閃いた瞬間があった。黙々と学習して身につけたスキルが連携し合うということに気づいた瞬間だった。何のために学習しているか不明瞭な状態でも一年以上黙々と学習し続けられたのは今思えば普通ではなかったと思う。

身体を壊して自律神経失調症になった原因の一つが仕事だった。一度働けなくなって休養し復職してからまた没頭していた時期があった。仕事が終わってからタイムカードを押して席に戻り職場のテスト環境で居残り学習をしていた。最後まで残って施錠して退勤する日が続いていたがあれも実は良くなかった。結局また同じ事を繰り返して自律神経失調症で働けなくなり退職した。結局自滅した感じになった。この頃には無理が効かない身体になっていたのだと思う。

ただ、この居残り学習をしていた時に分かったことがある。同期に資格マニアと言われる男がいたのだが、彼は既に結婚して子供もいた。家に帰ると勉強が出来ないからと言って私と同じ様に会社に居残りして職場で資格試験の勉強をしていた。度々居残り学習しているのを目にすることがあり、時には自分の目指すことを話し合ったりもした。話が上手いやつでいつも人を笑わせることができる能力があった。彼の努力している姿を知らない人にとっては資格を沢山持っている頭の良いやつとしか映らないだろう。私は彼が人に見えないところで努力をして資格を取得していたを知っている。

自分の人生を振り返ってみて、「傍目に狂人と見える」努力をしていたことはそんなに多くないが、多少はあったんだなということを自覚した。そして直接的ではなくとも、その経験上にあるスキルで私は今現在の生活が出来ている。ちょっと無理をするとこじらせてしまうというハンディを持ってしまったが。

成功した人は相応の努力をしている

多くの成功者は成功の裏にある努力の積み重ねを説明してくれることはしない。それでもやはり成功した人の裏には努力の積み重ねがあるのは間違いない。たまたま運だけで成功したという人もいないとは断言できないが、私の身の回りにはそういうラッキーな人は居ない。事業を成功させたりした知り合いもいるが、大変だった時期を知っていたりするので、やはり努力なしでは成功は無いと思える。

もちろん世の中には努力を積み重ねている人は沢山いると思うが、努力した人皆が成功するとは限らない。途方もない努力を重ねたが失敗して人生が大変なことになる場合もあるだろう。努力の結果が必ずしも成功に結びつく保証は無い。

多くの成功者は自分の成功談を大っぴらに話することは無いだろう。せいぜい酒の席で昔話の様に語る位のものだと思う。私の場合はこうしてブログという手法があるため自分が思い返してみたことを文章にしてみることも可能だが、自分が経験したことを人に伝える機会が無い人がほとんどではないだろうか。

ちなみに私は成功者ではないし、むしろ無理出来ない身体というハンディを背負った失敗者の部類に入るかもしれない。しかしそれなりの経験を積むことは出来た。その経験を使って仕事(転職)に苦労することもなく無事に食っていくことが出来ている。

没頭する時期が重要

自分の経験も含めて考えてみると、おそらく人生において「傍目に狂人とうつるほど努力できる時間」は限られていると思う。もちろんこれは若い頃であればあるほど有利だとわかる。体力もあるし吸収できる柔軟性も高いからだ。かと言って歳をとってからでは遅いということでもない。ペース配分をする経験を身につけているからだ。若い頃に比べると無理は出来ない分時間はかかるかも知れないが経験を流用することもできるし経験という引出しも増えている。

若い頃は自分が何をしたいのか?という疑問を持つことが多く、没頭する対象が定まっていない場合が多い。これは歳を取った自分にしてみれば非常にもったいない話であるが、自分の過去の経験からも致し方がないことだとは思う。

私には子供はいないが、もし自分に子供がいたらうまく誘導してやることができるだろうか?
将来何をしたい?
こんな漠然とした問いをしてみても若い子にはきっと答えは出せない。

子供が興味を持った事に周囲の大人がそっと手を差し伸べて、うまく誘導してやることが出来れば自ずと好きなことに没頭するだろう。そして没頭しすぎて「傍目に狂人とうつるほど」の努力を重ねることが出来れば、結果は保証されなくとも、本人にとっては何かしらの成果なり経験は残るはずだ。

時間や大変さを意識させない努力の積み重ねができるのは、「好きなこと」という対象に限定される。好きでもないことに没頭して延々と続けられる人は居ないだろう。こればかりは人それぞれ違ってくるので強要されることは逆効果だし、「好きなこと」を本人が自分で見つけ出すしかない。

若い人にとっては、なるだけ若い時期に経験者の的確な指導や誘導を受けることが成功への近道だという事は間違いないだろう。こういうのを昔は「英才教育」と言って、傍目からすると児童虐待に近いものがあった。本人が好きでやっていれば虐待ではないのだが結構微妙なラインで子供を指導する大人を目にしたことがある。もちろん技術的な事だけでなく精神的なことや思考についての指導も重要だ。

直接的な指導を受けることが出来なくても、昔と違って憧れる人の動画を観たなどという方法で影響を受ける機会は増えた。YouTube動画なんかは最たるものだろう。とても観きれない程の動画がネット上には存在する。

情報が多すぎる時代

昔と違って情報量が多く簡単に手に入れることができる時代は恵まれている。しかし逆に考えると情報がありすぎて的確なタイミングで必要な情報を手に入れるのは難しいかも知れない。ある程度の経験を積んだ人にとっては自分で必要な情報をフィルタリングする方法を身につけているが、人生経験が短い若手には何が今重要なのか自分で判断することは難しいだろう。場合によっては今はまだ早すぎるというタイミングで身の丈に合っていない情報を元に目標を設定して挫折してしまうかも知れない。

成功するためにはその時に応じた目標を設定してクリアし、次の目標を設定して努力することの繰り返しが重要だが、目標が高すぎるとクリア出来ず達成感を得ることが出来ない。結果として成功体験が身に付かず目標を設定するということが出来なくなる。

多くの人の場合、独学だけでは成長して行くことは難しいのかも知れない。傍らに居てタイミングを見計らってアドバイスしてくれる指導者がいれば、無駄のない成長をすることができるが、指導もまた難しい時代になっている。ちょっと強引だったりするとパワハラと言われたり、教える側と教わる側の関係における距離感も難しい。人を育てることが難しい時代になってしまったのも現実だ。

最後に

私の場合は中学校の音楽室にかけてあった書の言葉がずっと引っかかっていて、無意識のうちにそういう行動をしていたのかも知れない。結果的に身体を壊してしまい無理が出来ないことになったが、何かを得るためにはやはりそれなりの代償となる努力や時間を費やさなくてはならない。

先行きの見えない時代に生きているからこそ、自分が後悔しない人生を送るためには、過ぎ去った時間をもったいなかったと思わない様な生き方をするしか無い。それは人それぞれ違うし、人から強要されてやることでは無いと思う。自分の「好き」が見つかって、傍目には狂人とうつる程に没頭した努力ができるなら、本人にとって後悔は無いだろう。

今回、本田圭佑氏の指導とも言える言葉に、私も同様の経験があったんだなと気づいたことからこうして記事にしてみた。おそらく私が感じたことと類似の経験をしている大人は多いと思う。もしこの記事を読んでくれた若い人のヒントになれば幸いである。

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